■第1章滝の誕生とその変遷
- 「滝の誕生」
- 現代美術の国際的展覧会である1995年の第46回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表作家に選ばれた千住博は、当初、地球創生を彷彿させる作品「フラットウォーター」の出展を計画していましたが、その取材で滞在していたハワイのキラウエア火山の取材で一つの重要な発見をします。それが滝でした。フラットウォーターの制作中も気になる存在として千住の脳裏に焼き付いていた滝は、やがて作品として描かれることになり、作品「The Fall」として完成し、日本館で展示され名誉賞を受賞しました。背景の崖をモノトーンの黒色で塗りつぶし、その上に正面から見据えた滝が描かれた作品「The Fall」は、宇宙空間から発出される絶対者の意志がエネルギーとして降臨するかのように見えます。そのためタイトルは「The Falls」(滝)ではなく落下、降下を意味する作品「The Fall」と付けられたものとも考えられます。
- 「滝の発展」
- 翌年の1996年、滝はその方向性に対しての様々な試みが行われました。「Waterfall on Print」は現代美術的なアプローチによって、「Waterfall」は日本画的なアプローチにより生まれたものです。「Waterfall on Print」は、アクアチントによる銅版画作品で、銅版に腐食液を流すことで生じたイメージが作品になっており、液体の激しい飛沫が写し出されています。これは、戦後アメリカでジャクソン・ポロックらによって広まった、絵筆で描かずに顔料を下地に垂らしたりするアクションペインティングの手法の一つ、ポアリング(流し込み)に近く、行為としての芸術、結果ではなく過程としての芸術の一つの試みだと解釈できます。まるで科学実験のように、液体の流れとその軌跡だけが写し取られたこの作品の本質は、「The Fall」で提示された落下なのであり、落下の事実のみがミニマルに表現された現代美術作品と呼ぶことができます。一方で「Waterfall」は、過程の芸術よりも、結果としての美が追求された日本画的な作品として制作されています。ヴェネツィア・ビエンナーレにより巻き込まれることになった、現代美術と日本画という二つの潮流は、その後生み出される千住の作品に大きな影響を及ぼすことになります。
- 「日本画としての滝」
- 滝としての美が追求された日本画としての滝作品は、初期の写実的な表現から(「Waterfall」)、抽象的な表現へと変化を遂げていきます(「イグアス」、「Waterfall」)。顔料も、これまでの日本画の伝統的な胡粉からアクリル絵具、蛍光絵具など近代的な顔料が使われるようになっていきます。日本画的な滝の作品も、次第に現代的な方向へと向かっているように思われます。
- 「現代美術としての滝」
- 「Waterfall on Print」と同じように描かれた滝として「青い滝」があります。4メートルを超える紙に幾筋もの顔料が流されただけの滝の大作は、結果としての美よりも、エネルギーの天からの降臨を顔料の落下により示そうとする芸術行為が優先されて描かれたものと考えられます。現代美術では、岩絵具や油絵具のような技法の制約から完全に解き放たれた芸術行為として、あらゆる技法、手段を用いて作家が考えるコンテクストを作品として伝えることが求められています。果たして「龍神Ⅰ・Ⅱ」では、昼の世界と夜の世界を表現するために、ブラックライト LED による照明装置とコンピューター制御によって時間がコントロールされています。作家が最も伝えたい概念の中核である「時間」と「時間が作り出す世界=私たちの世界」を表現するために、伝統的な日本画の素材を用いずに、現代のテクノロジーが用いられているのです。
■第2章Waterfall on Colors
人類未曽有のパンデミックにより、私たちの住む社会からは、すっかり明るさや色彩が欠けてしまったように映ります。芸術とは、そうした何か社会から欠けてしまったものを指摘し、これまで見落としていたものの中から、解決の糸口を再発見することでその欠落を補完しようとするものであり、千住博はその補完作業を「Waterfall on Colors」において行おうとしました。つまり鑑賞者に対し、絵を通して、社会に何かが欠落していると気づかせ、自らが想像力を働かせて絵と対話をすることを促し、社会の豊かさへ向けた新しいヒントを生み出す思考を始めてもらうよう促しているのです。
これまでの滝の作品ではモノトーンの(多くは黒地)背景に滝が描かれていました。一方、「Waterfall on Colors」では、様々な色彩の背景に滝が描かれています。黒地の背景の滝は、外から滝を眺めた際に見える崖の色を表したものでしたが、「Waterfall on Colors」では、黒地とは逆に、滝の内側から外の世界を覗いた構図がとられており、内側から滝を通して観た多彩な外界が表現されています。色彩は様々な事象を象徴したもので、春夏秋冬の四季の色、その四季折々に育まれる植物の色など、私たちが住む世界の色だとも呼ぶことができます。また、自然を離れて、私たちが住む社会そのものの多様な色彩を象徴したものと言えるかもしれません。そうした画家の示唆について私たちが気づくとき、私たちは自分たちが住むこの世界が、実は色彩にあふれたものであるのだと再認識できるのかもしれません。
「Waterfall on Colors」の背景に描かれた様々な色は、最後には全てが滝壺に導かれていきます。滝壺の色は、これらの色彩が全て混ぜ合わされたものなのです。千住は、世界が豊かになるヒントの一つに多様性を挙げています。残念ながら、近年の社会では多様性が失われ社会的分断が進行しているとも指摘されています。この作品には、そうした危機に警鐘を鳴らし、人々が創造性を持ち、多様性によるより豊かな社会づくりをしてほしいという作家の意図が読み取れます。
「Waterfall on Colors」は「Waterfall on Platinum」と対になり展示されています。この2作品はこの展示場所を意識して制作されたサイトスペシフィック・アート(特定の場所でその特性を活かした作品)なのです。2作品の正面には大きな中庭があり、そこから自然光が差し込みます。プラチナの背景に滝が描かれた「Waterfall on Platinum」は、プラチナが中庭からの自然光を受け止め、「Waterfall on Colors」を含む周囲にその光を広げていきます。「Waterfall on Colors」は私たちの社会にある様々な色を表現した作品ですが、画面の前面に描かれた滝がプリズムの役割をして、「Waterfall on Platinum」から送られてきた自然光を分解し、背後の多様な色彩を映し出しているという隠喩としても解釈できます。また、光が無ければ多様な色彩も存在しないということも示唆しており、暗闇から光(希望)を照らす作家の強い思いが窺えるものとなっています。画家が描いた多様な色彩に自然光が加えられることで、一つの世界として完結されるのです。「Waterfall on Colors」と「Waterfall on Platinum」が作り出す空間は、現代美術における日本画のサイトスペシフィック・アート空間と呼ぶことができます。
■第3章光の世界
- 「光の世界」
- 色が光により様々に変化することはよく知られています。白い滝が描かれるのではなく、多彩な滝が描かれた「Falling Color」。白で描いてきた抽象的な概念の滝を色彩で描くということは、色を通して森羅万象の姿を求めたものと言えるかもしれません。そこに「Waterfall on Colors」での、社会そのものの多様な色との共通点が見出せます。光による色彩の違いを表現した作品に月の光と日光により桜の花の見え方が異なる「三春の滝桜」、「朧月夜の滝桜」があります。千住の光の表現は、朝が金、夜が青でなされることが多く、「タイドウォーター」では、月の光が青で示されています。「富士朝陽」、「湖畔・ジョアンの樹」、「海の幸・山の幸」では朝の光の表現に金泥が用いられ、森や山、海のブルーの夜の世界と対比させています。その中で光を描いた作品の中で少し異色なのは「海と空」です。弘法大師空海ゆかりの室戸岬の御厨人窟(みくろど)を訪れ、そこで見えた景色を描いたものです。光は黄と白の明度の違いによって表現され、悟りの世界が空であることを示すかのように白が光の頂として示されています。
- 「崖の誕生」
- 「Waterfall」で黒いモノトーンに塗りつぶされていた崖は、その後メインモチーフで描かれるようになりました。それが「崖シリーズ」です。その制作手法は、和紙を揉むことで凹凸の皺を生じさせ、その上に岩絵具を流すことで、岩石の表情を生み出すものです。滝と同様にプロセスの芸術が貫かれ、結果として見立てられた岩石風の模様が、崖として表現されたものなのです。
- 「星のふる夜に」
- 千住は、絵巻物を、現代的なかたちで再現できないかと考え続けていました。そして、日本に決定的に足りないイマジネーションを育む絵本を考えました。それはストーリーがなく、絵だけで構成されている絵本でした(星のふる夜に)。